皆様今晩はッ!!
っでさてして先日よりッ
やっとこさポチッと復活さんをば致しましたッ
このちゃまの馬鹿ッ話ッ
骨董屋の独り言でございますがッ
本日よりよりッ
ちぃ~とばかし江戸ガラスさんのお話さんをばッ
さしていただきとぉ~かと存じよりますちゃまでございますもんでッ
どぉ~かひとつッ
宜しくお付き合いの程ッ
お願い申し揚げ茄子ッ水茄子ッ避暑地は那須でッ
ごッだりまわぁ~~すッ!!
っでッ
とみもかくみもさんなる最初のお話さんはッ
こッつらりんッ!!!
っておほほほほぉ~~ッ!!!
こりゃこりゃいわゆる江戸切子しゃん定番さんのッ
角台杯さんでございまッかぁ~ボぉ~ドマぁ~カぁ~~ッ!!
しかもかもかもッ
全くおんなじ小振りの双子ぺヤたぁ~~ッ
こりゃこりゃ何気にッ
嬉しゅぅ~ござりマンナンライフのこんにゃく畑でごだり松ッ!!
っでまぁ~この確かにッ
ちょいと小振りでさしてな傷も幸いなくてッ
おまけにペヤでお揃いさんッてぇ~のはッ
まッことよござんすところでございまッけどッ
なしてわざわざ詳しく取り上げよぉ~とッ
このちゃましたのかと存じよりますればッ
実は実は週刊実話ッ
恐らくたぶんのあくまで憶測ではではございまッけどッ
いわゆるひとつのこちらのペヤッ
幕末の頃にッ
あのかの萩の地にて作られましたるッ
いわゆるひとつの萩ガラスさんのペヤではなかろぉ~さんかとッ
存じよりますと思っとりますちゃまなんでございますッ!!
っでッ
その根拠と申しますのがッ
ほらほれまずこのここんとこッ!!
いわゆるひとつの杯部と脚部を繋ぐ部分をッ
ガラス玉で繋がれましたるッ
俗に申さば玉つなぎと申します技法ぉ~をッ
施されとるところなんでございますッ!!
っでまぁ~このその萩ガラスさんんと申しますお方様とはッ
正にそれこそ幕末の安政六年ッ(1859)
萩の研究者の中嶋治平さんなる御仁の努力により始まったッ
萩藩の大きな収入源ともなったガラス製造がッ
萩ガラスさんと言われるお方様の正体でございますッ
っでッ
その中嶋さんはッ
ガラス製造を始めるにあたりッ
長崎やッ薩摩におもむきッ
そのノウハウを身に付けッ
また各地よりがらすの職人を呼び寄せたりもしてッ
あッという間にガラス製造所を立ち上げちゃったんでございますッ!!
っで更にはッ
薩摩に於いて習得したのかッ
その当時薩摩以外で色被せ切子を製造したッ
唯一のガラス工房でもあったのでございますッ!!
っで因みにッ
とある文献によりますればッ
江戸期の切子は全てが手鑢による研磨技法といわれた中ッ
萩だけが蒸気式のグラインダぁ~をッ
導入したとされとりますんでございますぞよッ!!
ってなわけでございましてッ
色々何かと話題の尽きぬ萩ガラスさんでございますがッ
但しねッ
その寿命はまッこと短くッ
慶応二年ッ(1866)中嶋さん没後ッ
あッという間に無くなってしまったんでございますッ・・・
ってなわけでございましてッ
萩ガラスさんとはッ
そげなるひとつの江戸期のガラスのお仲間のひとつなんでッ
ごだりますッ!!
ってなもんでッ
改めましてッ
今宵の本題さんに戻りますでございますがッ
っでまぁ~この確かに玉つなぎが施されとるだけでッ
萩ガラスさんとするのはッ
少々強ぉ~引かとは存じよりましてッ
ならばも一つの根拠となりうる所ッ
実をば申さばその萩ガラスさんはッ
おおにして全体的な仕上がりさんがッ
何気に稚拙なものが多いんでございますッ・・・
勿論ッ
上手なものも存在してはおりまッけどもッ
とみもかくみもッ
改めまして今宵のこのペヤッ
よぉ~く見て見てくださりますればッ
角台の部分はまぁ~このましではございまッけどッ
上の杯部ッ
切子の仕上げッ
杯部と玉のつなぎ方ッ
何気にちぃ~と下手だと思わなんでございませんかやッ!??
江戸期における色被せ切子のそのほとんどが薩摩製ッ!
してしてその極一部が萩ガラスさんとされる中ッ
薩摩にしちゃぁ~ちょいとへたくそやねぇ~~ッ・・
ッと思われるのが萩製と云われておりますくらいッ
ちぃ~とオモロな萩ガラスッ!
今宵のこのペヤさんがッ
そげな萩さんだったらオモロいなぁ~~とッ
願いを込め込めッ
今宵からの江戸ガラス話ッ
まずはポチッとここいら辺にてッ
ご無礼さんのはいじゃらばぁ~~いでッ
ごッだりまうすッ!!!