皆様今晩はッ!!
っで実を申しますれば皆様ッ
ついつい先月の頃ッ
たびたび一世をば風靡致しております我ちッちゃいもん倶楽部に対抗いたしッ
なななななななんとッ!
こよなくドでッかいもんをば愛するが故のッ
『でッかいもん研究会』
なるもんがッ
秘かに設立されてしまったんでぇ~~ごッじゃりまうすッ!!
っでッ今宵ッ
その秘かなる設立さんをば祝うかの如くッ
にんとまかんとまある一幅のドでかいもん殿がッ
海老屋へとお越しになられたのでございますんでぇ~ごだりますッ!!
だばだばまずはッ
ごだごだゆぅ~てもなんです故ッ
早速もっての御登場さんとまいりやほほいやさんですまんねんッ!!!
ってあがはははあおおぉ~~~~~ッ!!!!!?
ドッどでかぁ~~~~~~ッ!!!
ねへへへへ皆様ッ!
確かにドでかいでございましょッ!
まぁ~もぉ~とにかくッ
その本紙だけでも横幅百七十数センチッ
高さ九十数センチッ
いやいやこんなんドでかいのッ
掛ける床なんざありゃせんがなぁ~~~ッ!!!???
っとまぁ~このそんな悲鳴が聞こえてきそぉ~な今宵のこのドでか一幅さんではございますれしがッ
改めましてまじっくりゆっくり見て見てくださりませませでございますッ!
でまぁ~このお世辞さんでも決してお上手たぁ~申し上げにくい豪快富士の山とッ
何気に添えられた粋な感じの歌ひとつッ!!
ででして実はこの一幅さんッ
描きなすった御方様とはッ
今を去る事二百年ほどの昔ッ
尾張名古屋を舞台といたしッ
多くの人々を深刻さんな病からパピッと救い出しッ
男ながらに産科を極めし名医&男産婆ッ!
してまた当時を代表する俳諧の名士でもあられた尾張名古屋のAUぅ~~ッいや英雄ッ!
伊東シロォ~じゃなくてッ
岸部シロォ~じゃなくてッ
姿の三シロォ~でもなくってぇ~~~ッ
井上士朗さんッその御方様にぃ~ごッじゃりまううぅ~~~すッ!!!
ででしてその士朗さんはッ
寛保二年ッ尾張の守山ッちゅぅ~とこでお生まれになりッ
その後叔父であられる井上安清さんの養子となって医師としての意思を継ぎッ
ドカンと一発名医となられた御方様でございますッ!!
してまたその後に京都へ出でてッ
産科の術をも会得されッ
尾張名古屋の城下にてッ
多くの人々を病から救った名医として親しまれてゆくのでございましたッ!!
とりわけ庶民への愛情熱くッ
それ故に士朗さんの医名でもある「専庵」を町の通り名にしたりッ
「尾張名古屋は城でもつッ」ってな名文句をッ
その当時は「尾張名古屋は士朗でもつッ!!」
っとまで親しまれた御方様だったんでぇ~ござりますッ!!
ででしてその傍らッ
俳諧の世界でもその名轟き士朗さんでございましてッ
かの名古屋俳壇の名士ッ加藤暁台さんのもとでッ
これまたパピッと俳諧の勉強をばされてッ
寛政の三大家とまで言われた御方様でもあられたのでごじゃりますッ!!
っとまぁ~そんなもんなでッ
ある意味ゆぅ~たら我中日ドラゴンズの御膝元である尾張名古屋におきましてのッ
江戸期の名医でありぃ~のッ
名古屋城下の庶民のヒィ~ロォ~さんでもありぃ~のッ
してまた俳諧の名士でもありぃ~のッ
靴を選ぶにゃクラリィ~ノッ!??
珈琲飲むならカプチィ~ノッ!!????
そんなバリバリ名古屋の士朗さんのッ
言わば前代未聞的チョォ~ドでか富士の山一幅さんにッ
巡り合えましたことはッ
こいつぁぁ~ともかくどえりゃぁ~出来事さんだったのかもッ
しんにゃぁ~でごじゃいまさぁ~やでございまさぁ~やねッ!!!
享和元年ッ正にお亡くなりになられる十年程前にッ
二の丸御次療治を務める事となりッ
恐らくその際ッ東海道中にて目にされた富士の山をッ
目に焼き付けた後の今宵のドでか一幅さんだったのかもせれましぇんッ・・・
まぁ~このそんなこんなのドボチョンドロドロ南利明ドラキュラバァ~ジョンさんなッ
今宵のお話さんでございましたぎゃッ!!
とにもかくにもッ
まずはもっての『でッかいもん研究会ッ』
ドカンと一発よろしゅぅ~おねぎゃぁ~申しますだぎゃぁ~~~ッ!!
ついでに中日ドラゴンズッ
夢の五割復帰に向けてッ
応援してちょぉ~たのむだぎゃぁぁ~~~~~~ッ!!!!!!
っでところでちゃまちゃまぁ~~~ッ
こげなにドでかい一幅さんッ
いったい何処に置いとくのぉ~~~~ッ?????
あッ!??
ぜんぜん考えとらんかったぎゃぁ~~~ッ!!