皆様今晩はッ!!
っでさてして先日ッ
海老屋のインスタグラムにてッ
昨年ご紹介致しました御本茶碗さんがッ
何気に朝鮮のお生まれではなくッ
もしかしてもしかするとの日本で作られましたる御本写かとのッ
疑いが考えられました所ッ
先日ッ
諸先輩ッそして識者の方々様からの温かきご指導の下ッ
恐らくたぶんッ
ほぼほぼきッとそぉ~ではないかとのッ
ドカンと一発有難きお話をば頂きましたものでございましてッ
今宵ここにッ
パピッとポチッと皆々様にッ
ご報告さんをばッ
御無礼さんでございますッ!!
っでッ
まずはともやれッ
事の発端申しますればッ
昨年暮れにッ
ほぼぶち割れ状態で手に入れましたる御本茶碗さんと思われしお茶碗さんがッ
数年ぶりに無事直しをば終えましてッ
ちゃまの元へとお帰りになられたところッ
兎にも角にもまずは早速皆々様にご報告ご紹介をとッ
喜び勇みインスタグラム及びッ
海老屋のブログにてご紹介させていただきました後ッ
なんかどぉ~もッ
何とも言えぬ違和感をば感じましてッ
古陶の大先輩にお伺いいたしました所ッ
まずひとつにッ
高麗であるならばッ
高台内の轆轤目がのの字であるはずの所ッ
確かによく見ますればのッ
逆さのの字ッ!!!
まずはもッてのここが大きな高麗ではありえない根拠ッ
でございましたッ!!
っでそこでッ
全体をばよぉ~く見ます所ッ
確かに何処から見ても高麗茶碗ッ御本或は呉器ッ
と申してもおかしくないくらいのど渋仕上がりッ・・・・
っとなりますればればッ
ひとつ考えられるのがッ
その大先輩曰くッ
江戸初期の京都粟田口焼の高麗写茶碗ではなかろぉ~かとのッ
ご意見でございましたッ!!
そこで早速ッ
大先輩より教えていただきましたッ
とある高麗茶碗の資料本を読み漁りました所ッ!!!
確かに確かにッ
江戸の初期ッ
粟田口焼にてッ
作兵衛さんッまたは太左衛門さんなる陶工さんがッ
実に見事な高麗写の茶碗を手掛けていたとの記述がございましたッ!!
ちょぴッと詳しく申しますればッ
寛永20年にッ
鹿苑寺住職であられた鳳林承章さんの茶会におきましてッ
作兵衛呉器手茶碗を使用との記述ッ
慶安3年ッ
粟田口焼茶碗 高麗五器手相似也ッ
大平五兵衛正月の年賀に持参との記述ッ
*大平五兵衛さんとはッ当時の鹿苑寺出入の唐物屋さんッ
などなどッ
粟田口焼の高麗写のお茶碗がッ
当時の京都におきましてッ
活躍しておりましたとのことッ!!
しかもかもかもッ
その記述に登場されました鳳林承章さんはッ
なかなか厳しき目をば持たれたお茶人さんとのことッ
その鳳林承章さんが絶賛されていたとの記述もございましたッ!!
してして更にッ
その当時の粟田口焼ではッ
高麗写茶碗と致しましてはッ
呉器と伊羅保の写ししか手掛けてなかったとのことッ
とにもかくにもッ
纏めて申しますればッ
その当時の粟田口焼の高麗写茶碗がッ
如何に本歌と見間違えるほどのものだッたのかッ
ってなことを伝えてるかの如しッてことでございますッ!!
因みに一つッ
粟田口焼の高麗写しの誕生さんの後にッ
おなじく京都の御室におきましてもッ
呉器写のパピパピさんなお茶碗さんがッ
焼かれてたとのことでございましたがッ
たしかにその御室も見間違ごぉ~かの如しだッたよぉ~でございますがッ
その御室のお茶碗さんはッ
全体的に薄手でありッ
してまた御室の主でございましたッ
仁清さんの意向が含まれていたとのこと故にッ
今回のこのお茶碗さんの様子とは少々違うかとッ
思われました所でございますッ!!
まぁ~このまッこと長々さんと書き綴ッてしまいましてでございますがッ
さいごにパピッとポチッと纏めますればッ
今回の問題のお茶碗さんはッ
まずこの高台部轆轤目が逆のの字故にッ
朝鮮ではなくッ日本製ッ!!
ただッ
なんともぱッと見ちゃんと致しましたるッ御本或は呉器のお姿ッ
ならばッ
江戸初期に現れましたるッ
京都粟田口焼の高麗写の可能性が考えられるとのッ
まずは持ッての誠勝手なちゃま的結論さんにッ
至りましたる所でございますッ!!
残念ながらッ
パピパピさんな朝鮮生まれのお茶碗さんではなかッたもののッ
もしかしたらもしかすッとの江戸初期粟田口焼の高麗写ッ!!!?
それはそれでの実にまッことロマンチョックな骨董屋さんの独り言ッ
っでござりまんなのメルヘンでんなでございましたッ!!!
兎にも角にもッ
何気に胸のつかえがとれたよぉ~なッ
清々しきかな睦月の暮れでござりましたッ・・・・・
メルヘンだんなぁ~~~ッ・・・・・