松前藩士ッ 蠣崎波響さん筆ッ 蜃気楼ッ!!
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皆様今晩はッ!!
っでッ
またまた海老屋ブログ大変ご無沙汰致してしまいましたがッ
お陰様をばもちましてッ
海老屋秋の爆烈企画ッ『古鉄ッちゃん』もッ
気合まくりのラスト一週間をば迎えましてでございますッ!!
っでッ
そげな真ッ只中ではございますがッ
先日ちょいとなオモロな近世絵画をばッ
お迎えいたしましたもんでございます故ッ
今宵は久々ゆッくりお話さんをばさしていただきますればッ
誠幸さんにぃ~ございますッ!!
でばだはそげなる近世絵画さんッ
まずはもッてとこッつらぴんッ!!

ってっってまぁ~こりゃッ
いわゆるひとつの蜃気楼図ッ!!
巨大な蛤さんから都が現れるッてなッ
伝説的お話の画題でございますがッ

今宵のこの絵のオモロな所はッ
その蜃気楼さんで描かれとるのがッ
何とま何とッ
蝦夷のお国は函館さんの遠景さんなんでぇ~ござりますッ!!

しかもかもかもッ
この函館さんをば描きなすッッたお方様がッ
これまた何とッ
蝦夷は松前藩士のッ
蠣崎波響さんの筆によるたぁ~こりゃオモロッ!!!

確かに近世に於けます蜃気楼の図はときたま見かけますではございますがッ
その蜃気楼さんに浮かび上がる都の姿が函館さんでッ
しかもかもしかッ
それをば描くはッ
地元蝦夷の松前藩士と来りぁ~~ッ
そりゃもぉ~オモロ以外の何者さんでもござりませんやねッ!!
いやいやしかしまッ
オモロな上にッ
よぉ~またこれこりゃ丁寧さんに描かれましたるもんでございますッ!
令和の世とはッ
全く違う当時の函館さんのお姿さんがッ
ゆッくりじッくり垣間見ることが出来るよぉ~でございますなぁ~ッ!

っでさてして今宵のこげなる函館蜃気楼図ッ
こちらを描きなすッた松前藩士の蠣崎波響さんたぁ~ッ
如何なる御仁でござりますのかッ!!?
ここでちょぴッとご紹介さんでございますッ!!

っでッ
今宵のそげなる波響さんッ
そのお生まれさんはッ
宝暦14年ッ(1764)
松前藩12代藩主ッ松前資広さんの五男としてお生まれさんになりッ
その後間も無く藩主寄合の蠣崎家の養子となられッ
蠣崎姓を名乗ることとなるのでございますッ!!
波響さんはッ幼き頃より絵が上手でございましてッ
それを見た叔父の勧めによりッ
安永2年に江戸に出て絵画の勉強をばすることとなりましたッ
江戸では南蘋派の宋紫石さん等の師事を受けッ
波響さんの若き頃の画風を身に付けていかれましたッ!!
してまたその後の二十歳の頃にッ
松前に戻られますとッ
当時松前に滞在されておりました大原呑響さんとの親交を深めッ
その頃にッ
いよいよ波響とゆう名を名乗ることとなるのでございますッ!!
っでさてしてそげな波響さんの画家と致しましてのッ
その名を広めるきッかけとなりました出来事がッ
いわゆる寛政元年(1789)の寛政蝦夷蜂起でございましてッ
その時に松前藩に尽力されたアイヌの首長を描いた夷酋列像がッ
後の上洛の際に天覧を叶えッ
応挙さんとの交流にも繋がッたとされておりますッ!

余談ではございますがッ
一時期松前藩はッ
寛政8年の英国上陸の際に様々なことが重なりッ
文化4年に陸奥国へと転封されてしまいましたがッ
その後の旧領復帰の立役者としてッ
波響さんが沢山貢献されたとも伝わッておりますッ!!
生涯ッ松前藩の為に様々奔走された波響さんでございましたがッ
江戸への旧領復帰の御礼参りの際に患われた病によりッ
文政9年(1826)松前にて63歳の生涯をば閉じられたのでございましたッ・・・
波響さんの人柄はとッても温厚でらッしゃッた故にッ
その交流は多くッ
多岐にわたりまして親しまれた御仁だッたとのことでございますッ!
蝦夷松前の地に身を置きッ
藩の為に尽力なされた波響さんッ
その温かなお人柄が何気にしみじみ染み入りますかの如しッ
穏やかッ優しきッ函館の一幅さんでございますやねッ・・・
波響さんはッ
まッことほんとにッ
蝦夷の地を愛してらッしゃッたんでぇ~ござりますなぁ~~~ッ・・・・
